パリに留学する映画オタクのアメリカ人青年・マチューは、同じく映画好きな若者で双子の姉弟・イザベルとテオに出会う。
映画の時代設定である1968年頃のフランスは、彼らのように映画愛にあふれている人たちが映画を作っていた時代だわ。
恥ずかしながら私も、学生の時映画のサークルで映画撮ったり、イギリスの大学院ではわざわざ文学と映画を専攻してたよ。
って言っても小難しいことは書かず、あくまでもくだらなく、女子視点で、映画の中の男女分析するわ!
最大の見所は2人の男子のイケメンぶり?
女子的に言うと、この映画の見所は、2人の男性主人公が超〜イケメン、と言う点に尽きる。
しかも、一人はアメリカ人、一人はフランス人だ。
ん?だから何?って?
いやあ国際派女子ならわかってくれるでしょ?
アメリカ男と、フランス男では、ビミョーに違うじゃないですか!
アメリカ男って言えば、どストレートで単細胞。
親や世間、神様や科学など、何せよ、誰かから与えられた信念をそのまま衒いもなく口にするとか、子供がそのまま大人になったふうで面食らう。
ま、子供ぽいぶん傷つきやすく、母性本能をくすぐることも。
フランス男と言えば逆に、一見、こじらせ男子風(本当に屈折しているかどうかは人によるが)で、やたら俯いてタバコ吸ったりとか、囁くように耳元で喋ったりとか、会話の端に小難しい思想やインテリゲンチャの名前を出してきたりする。
が、もしかすると本当の自分をストレートに出せないシャイさから、単に格好つけているだけかも。
へへっ、数名の友達くらいしか知らないのに一方的に要約したったwww
で、この映画の、アメリカ青年のマチュー君。
ちょっと、容姿がアメリカ作家のスコット・フィッツジェラルドに似てる。
つまり傷つきやすく夢見がちな文学青年ならぬ、映画大好きな映画青年は、遊学で訪れているパリで知り合ったやはり映画好き双子の姉弟の家の招待され、その晩、二人が裸で一緒に寝ているところを見てしまう。
姉弟なのに裸で一緒に寝ているなんて、、、と、アメリカ青年マチューはうろたえる。
でも朝、双子の女の子の方のビキニ写真を彼らの家で見つけて、こっそり自分のパンツの中に押し込む。そのくせそのイザベルからセックスを強要されて逃げ回るあたりは、ちょっと可愛いらしい。
女子なら仰け反るほどの美形なのに、マチュー、ひょっとしてヴァージン?
だって、このマチュー君、ていうか演じている俳優、水も滴る(死語?)ほど、良いオトコなんよ。お肌はツヤツヤ、金髪がサラサラ、金髪の産毛まで輝いていて、目も色が薄くてキラキラ、、、そう、一言で言うと正統派ハンサム、しかも少女漫画系ね。
一方この映画のフランス男、双子の弟テオは、南欧風の美男子。黒い髪、ギリシャ彫刻のように彫りが深く、切れ長で大きな目は、どこか影があり(パリではあんまり笑わないのがクールと考えられてるのかな?)家族との話題も社会運動(ほらね、どうしても格好つけたいのよね、彼ら)。
ドリーマーズ
製作 2003年(イギリス・フランス・イタリア合作)
原作 ギルバート・アデア
監督 ベルナルド・ベルトルッチ
出演 マイケル・ピット、ルイ・ガレル、エヴァ・グリーン他
言語 英語
スキャンダラスな映像ばかりに注目が
マチューは、双子の姉弟の父母が休暇で家を留守にするかわりに彼らの姉弟の家にしばらく滞在することになるの。
3人は家の中で映画クイズなど馬鹿げたゲームに講じる。マチューがゲームに負けると、罰ゲームと称してイザベルがマチューの衣服を脱がせ始め、イザベルの水着写真がマチューのパンツから出てくる。
アチャー。マチューの当惑顔、もう見ている方も恥ずかしい。
弟テオは、罰ゲームで姉のイザベルがマチュー君の服を脱がせ、ついには、ほとんどレイプに近い感じで最後まで行ってしまうのを、平然と見ている。
この映画は、センセーショナルな性描写ばかりが取り沙汰される。
けれど、家の外では学生たちが官僚政治に「ノン」を突きつけた5月革命というフランスの政治的事件の真っ最中だわ。
並行してフランス映画界でも、トリフォーやジャン=リュック・ゴダールのような、理論的に批評して新しい映画作りを実践する「ヌーベルバーグ」革命が起こっていたのよ。
登場人物が皆映画おたくなので、古い映画の引用が多いし、パリの市民運動を背景にしているし、しかも絶世の美男美女がほとんど裸で出っ放しときたら、アヤヤ、映画監督ときたら自分の過去を懐かしがって、しかも覗き趣味なのかな、、、と正直この辺りで見るのやめようかと思った。
でも罰ゲームで自らマチューと行為に及ぶも、意外にも彼女は出血し、泣き出す。
だから弟とは、実際の性関係がなかったとわかる。
自立と依存
ってことは双子の姉弟は近親相姦的には見えるけれどそれ以上に、意外と一般的な家族でも見られる、極端な依存関係なのでは?ということ。
親子関係でも、兄弟姉妹でも夫婦でも、過剰に依存的な家族関係ってありがちで、ただ本人同士はそれが当たり前なので、気づかないことは多いのではないかなあ。
でも誰かが「なくてはならない」という感覚は、1人じゃない、心地よさを伴うので、本人同士がそれを依存と認識するのは難しい。私自身も子供の頃は妹と、大人になってからはパートナーと、仲が良ければ良いほど、「これは依存関係なのだろうか」と不安になることがあったよ。
たとえ頼っている相手でも「いつでもお互いが1人になっても生きていけて、自分や相手の単独の幸せを受け入れられる」って、そういう関係が必要なんだろうね。
つまり自立と依存のバランスなんだろうな。
だからこれはテオとイザベル中心の家族映画でもある。
姉弟の両親は自分の娘と息子をほったらかしで長期休暇に行き、ある日帰ってみたら他の青年と3人で全裸で抱き合って眠っている。
3人をそっと眠らせたまま、必要なお金だけ置いて去る両親は、日本人から見たら多分ありえない親で、アメリカの常識とも多分違う。
私も、旅をしたパリでちょうどマチューのように友達になった学生の家庭に1ヶ月近く泊めてもらうことがあった。
いろんな家族と出会ったけれど、フランス人の家族はこのテオとイザベルの家庭のように個人主義的で、まるで子供を他人のように扱っていた。
あるフランス人の両親は、夜仕事から帰ると大抵は観劇、自分たちのパーティーなど大人の社交に出掛けた。
子供達は全く放って置かれたけれど、だから愛情がないという風にも見えなかった。
テオたちの両親がさっさと子供を置いて休暇旅行に出かけ、戻ってきて子供たちがマチューと全員全裸で寝ていても、お金を置いてまた旅行に出かけたように。
観察者としての旅人
この映画はマチューという観察者としてのアメリカ人青年の視点から描かれている。
マチューは双子の姉弟2人に魅力を感じながら、彼らと近づくほどに強い依存関係にある2人から、孤立を感じる。
マチューは徹頭徹尾異邦人であり、旅人であり、最後まで部外者として、1968年のパリを見ている。
旅人としての私も、マチューのような視点で、フランスという異国の家庭の距離感に驚きながらフランス人の若者とその家族たちを眺めていたのを思い出すわ。
罰ゲームとかセックスとかはなかったけど、1ヶ月間、フランス人の友人たちは彼らの家の中に閉じこもって、絶え間なくタバコを吸いながら、何時間も何時間も子供じみたゲームをしていた。
私は彼らといて楽しかったのに、時々孤独を感じていたの。
旅人として彼らの生活の中に一時関わっても本当には関わっていなくて、自分はあくまでも通りすがりなのだと。
現実の感触の薄い死と生
イザベルは両親が帰ってきて、弟とマチューと裸で寝ているところを見られたと知ってか、突然ガス栓をひねって無理心中を試みる。彼女なりの両親との関係のケジメがあったのか、私にはその動機はよくわからない。
しかし家の外でデモをする人たちが投げ込んだ物が窓ガラスを破って部屋に飛び込んできたことで、イザベルは我に返る。
テオとイザベルは、映画や空想の中で政治や社会と関わり、現実の感触の薄い死と隣り合わせの生を生きている。
原作はイギリス作家
原作者はギルバート・アデアというイギリス人作家で、原作に比較的忠実に映画化されているよう。
なので原作でも主人公はアメリカ人マチューらしいわ。
まあギルバート・アデア自身、映画オタクで、フランスにも住んでいたらしく、映画批評家、翻訳家、詩人でもある作家らしいから、この映画にはイギリス人は出てこないが自分が見聞きした人たちを主人公にしたのかもね。
姉弟とマチューのスキャンダラスなら側面ばかりが取り上げられて来た映画だけれど、5月革命というフランスの政治的事件をアメリカ人から見た異文化の歴史として描いてる。
そして、10代の繊細な主人公たちが空想(ドリーム)の中に生きながらも、イザベルが「街が家に入ってきた」と表現したように、家族や家の外の現実と向き合い始めた危うい2人の成長過程の物語とも言える。
つまりほとんどのシーンでの近親相姦的な表面に気をとられさえしなければ、家族の依存と自立、旅、歴史、思春期の愛と性、生と死、など普遍的なテーマが織り込まれているのだ。
画像引用元
Cigarettes After Sex – Affection (The Dreamers)
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